FMK エフエム・クマモト

社史

営業収益10億946万円で「10周年10億円」の目標達成。聴取率は全時間帯で県内トップに。米国モンタナ州のラジオ局KUFMと姉妹提携。

主な出来事

KUFM局と姉妹提携

平成5(1993)年秋、米国モンタナ州政府駐日大使のロン・ハウギー氏から「姉妹局になってはいかが」と提案があり、モンタナ・パブリック・ラジオ(KUFM)との提携の検討を始めた。
KUFMは、ナショナル・パブリック・ラジオ加盟の公共放送局で、モンタナ大学の教育課程の一環として昭和40(1965)年に開局。学生やボランティアが運営し、経営は主に寄付による。
平成6(1994)年5月24日(火)から29日(日)まで「クマモト国際交流週間」に合わせてモンタナ地域の首長一行が熊本を訪れた。取材のためKUFMニュース・ディレクターのサリー・モーク氏も来熊。長谷川社長らと両局の状況等について意見交換した。
その後、姉妹提携が決定し、調印式はモンタナで行われることになった。9月8日(木)から14日(水)まで「エフエム中九州モンタナの旅」と銘打ったツアーを実施、FMKから長谷川社長夫妻、桐原直岐、平山啓介が参加した。
9月9日(金)夜、ミズーラ市で調印式。その模様は、開局記念特別番組『BIG SKY MONTANA』のタイトルで、11月1日(火)21時~21時55分に放送した。

「サタデーウェイティングバー」風番外編(平成6年4月のある土曜日)

一つだけ約束してください。今日、これから行くお店をむやみに人に紹介しないって。では参りましょう。
熊本は上乃裏通り、イタリア坂を上がった辺りのイタリアンレストラン「AGANTI」。我々が行くのはそのウエイティングバー。土曜日の夕方の常連客が織りなす熊本一の日常会話、聞き逃したくないばっかりに、つい足が向いてしまうんです。
さあ、着きましたよ。私が扉をお開けしましょう。
アレ、あの一角にFMKの最初のころのメンバーの方々が集まっておられるようですよ。ちょっと、聞き耳を立ててみましょう。
◇ ◇ ◇
増田仁(元熊本日日新聞社メディア担当)
エフエム中九州の誕生までには、いろいろあって慌ただしかったなァ・・・。郵政省の情報格差是正方針で、民間放送の多局化が全国的に展開された。熊本県内にはまだ熊本放送(RKK)とテレビ熊本(TKU)しかなかった。みんなが注目して見守る中、テレビ第三局(熊本県民テレビ=KKT)が開局。その余韻が色濃く残っている中でFM電波が割り当てられた。163件もの出願があってビックリした。
長谷川孝道(代表取締役社長)
昭和59年(1984)年12月12日に沖津さんと私が郵政省に予備免許を申請し、24日に交付を受けた。会社名を決定するのが大変だった。使いたかった『エフエム熊本』という名称は既に登録されており、諸事情から使わないことにした。『エフエム阿蘇』や『エフエム肥後』などの案も出たが、九州の中央に位置しているので『エフエム中九州』と決めた。
増田
その件については、九州電波監理局の田中放送部長から「『エフエム熊本』を略称にしてはどうか」との提案もあった。
長谷川
12月10日が、会社の具体的な姿が見えた最初の日だった。沖津さんが議長となって定款案を承認し、発起人組合を設立した。
橋元俊樹(元調査役)
スタート前の三大課題は①社名②演奏所③送信所ーだった。なかでも一番の問題は演奏所で、諸条件から現在地のメディアビルが浮上したが、すんなりとはいかなかった。
長谷川
その件に関して私は三日三晩、郵政省に通った。最後は担当者も「やむを得ませんなぁ」ということで、やっと認められた。
税所恒煕(元技術部長)
送信所も大変だった。金峰山には各局の送信所が集中しており、新たに鉄塔を建てるとなると各局の同意が必要で、四苦八苦した。
橋元
『FMK』の名称は、長谷川さんが言い出した。本来なら『FMN』となるべきところだろうが、将来のこともにらんで『FMK』と決め、「エフエム・ミドル・キュウシュウ」と読んだりした。
長谷川
『FMK』としたのは熊本の『K』への愛着であり、九州の『K』という意味も込めた。
橋元
ニュースは朝日、西日本、読売、熊日が「提供したい」と言ってきた。
税所
放送設備の選定も難しかった。二つのメーカーに絞り、他局の話も参考にしながら、やっと決定した。
長谷川
機器の導入費用は大きな金額となったが、沖津社長は値切り上手だった。
沖津正巳(代表取締役会長)
「無知は力」だ。
長谷川
慣れていない銀行との交渉で、沖津社長の指示通りにしたが、黙って見ていた社長は「私なら、あんなことは言いきらん」と笑っておられた。
社屋は300坪弱もあり、当時のFM局としては贅沢なほどの広さだった。
橋元
オープンスタジオも造った。他局には見られない特徴的なものだった。
三浦信之(放送部長)
昭和60(1985)年2月にスタジオを設計した。当時、音を吸収しないから窓はつけないのが業界の常識だった。しかし、しゃべるときに外部が見えれば臨場感が出る、と思って全部のスタジオに窓をつけた。
長谷川
全社員がそろったところで、7月12日から2泊3日、『創業トレーニング』と銘うって阿蘇で合宿をした。
増田
全社員そろっての研修とはすばらしい。そういうことで団結が強くなる。
三浦
編成はRKKとは全く逆の方向を目指し、ポップス中心で若者と主婦層を狙った。曲は完奏させることを基本とし、開局時から朝、昼、夜に生番組を放送した。特に『FMKジャーナル』は他のFM局に見られないユニークなものだった。
長谷川
スタート時、自社制作番組の割合が18%と非常に高かった。
三浦
TKUから出向していたアナウンサーの千々波君は「制作までやるのはいやだ」と言っていたが、いま振り返れば、いい勉強になったのでは・・・。
千々波明輝(元放送部次長)
いや、ただただ疲れただけで・・・。
園田頼正(元営業部長)
営業は最初のころ、ずいぶん苦労した。新聞はダミーを作って広告主に持っていくので、ある程度のイメージを抱いてもらえる。しかし、FMはまだ電波を出していないので番組のイメージが湧きにくいし、認知度が低いこともあって説明するのが大変だった。そんな中で、上通や下通商店街の経営者が世代交代していたことは好材料だった。若い人たちは理解が早かった。放送料金を決めるのも難しかった。新聞は1センチ1段という単位だが、放送は1秒が単位となる。本を読んだら、「新聞の1段を読むのに何秒かかるか、で料金が決まったようだ」と書いてあり、なるほどと思った。
長谷川
5月1日に東京支社を開設し、21日から東京を皮切りに大阪(23日)福岡(24日)熊本(28日)で会社説明会を開いた。東京でAMとFMの差を尋ねたら「FMの売り上げはAMのおよそ35~40%」ということ。FMKはRKKに対して37.4%からスタートして今は60%近くまで伸びてきている。
神長伸行(東京支社長)
わが社と同じ時期に10局が開局するというFMラッシュで〝食傷〟気味なところもあって、広告代理店の関心も若干薄いきらいがあった。そんな中で、熊本はマーケットが大きいということで注目を集めた。しかし半面、「中九州というマーケットがあるのか」と疑問視する向きもあり、営業的に心配な面もあった。
税所
9月22日に試験電波を出すためのデータの打ち込み作業が大変だった。CDプレーヤー導入を巡って大論争もあった。「そんなものは必要ない」と反対する声に対し「間もなくデジタルの時代が来る。レコードに代わってCDになる」と説得して導入した。音源を流すのに放送順に並べる一本化方式ではなく、わが社はオーディオファイルによるダイレクト方式をとった。データを入力しておけば呼び出すというもので、時間短縮ができた。しかし、電波障害のため、試験電波を止めては流し、を繰り返しながら、なんとか10月17日のサービス放送にこぎつけた。
山城博之(専務)
電波障害の問題はやっかいだった。金峰山に各局が集中しているので、どうしても障害は起こる。それでもわが社は比較的、金がかからずに済んだと思う。
三浦
サービス放送の第一声はたしか千々波君だった。
千々波
あの日は午前4時まで池田美保君とリハーサルをした。朝、きちんと電波が出るのだろうか、と心配だったが、なんとか第一声を出すことができた。
橋元
その前にFM福岡で研修したのではなかったか。
千々波
FM福岡に1カ月ほどお世話になった。その間、ニュースを3本読んだ。まさかFM福岡から声を出そうとは夢にも思わなかった。
三浦
久留米方向にアンテナを向け、千々波君がFM福岡でしゃべっているのを幹部会で聴いていた。手が汗ばんでいたのを覚えている。
神長
他のFM局の出向者に比べてFMKは現役のバリバリばかり。「中九州は違うね」と言われた。編成にもうるさい、ということで注目された。
長谷川
番組の中でユニークだったのは『FMKジャーナル』だろう。
橋元
私が出演することになったが、声に自信はないし、冗談だろうと思った。苦労したのは1週間分のニュースをまとめること。真面目にやったら2日はかかる。あとでは適当に手抜きをしたが、ダイジェストを作る難しさを実感した。ニュースだけではダメなのでゲストを入れたり、書評やエッセーも盛り込んだ。ダジャレコーナーもあった。
長谷川
生放送で何を言い出すか分からないので、心配しながら聴いていた。
橋元
いろんな意味で試行錯誤だった。
小川芳宏(元企画室長)
私も出向してきて、マイクの前でしゃべることになろうとは思っていなかった。橋元君は文芸路線だったが、私は女性を招いてインタビューするなど、ちょっとくだけてやってみた。新聞社で活字しか知らなかったので、いい勉強になった。
堤秀男(元企画部長)
平成2(1990)年3月1日に出向してきて、その週のうちに早くも『FMKジャーナル』に出演した。活字の中(新聞社)で生きてきて全然しゃべったことがないだけに戸惑いが大きかった。ニュースを1週間分まとめてやることが果たしてどうなのか、と思いつつやっていたが、取材機能がない会社のつらさがあった。変なオヤジの声より優雅な音楽のほうがいいに決まっている。私が出演したことによって放送を穢したのではないかと、今も気になっている。
橋元
『NTTミュージックトーク』も思い出深い。最初は来場者が少なかったが、そのうち、客が増えて常連も多かった。美術館コンサートが始まったのはそのあとだった。
山城
開局記念コンサートを天草の松島でやったが、よく赤字が出なかったものだ。
橋元
開局のときは県立劇場でもミュージカル風のコンサートをやった。観客が立ち上がって大騒ぎとなったので、車いすの人から「見えない」と苦情が出た。人気の杉真理、エポなど6人が一堂に会したのは日本初とあって、専門誌にも大きく紹介された。

売り上げ十億円達成

平成7(1995)年の3月期決算で売り上げ10億円を達成した。
「10周年で10億円」は、FMKの合言葉だった。とはいえ、〝願望〟も多分に含まれており、数字を積み上げてきてはいても、実現できるか誰にも確信はなかった。
開局1年目は2億700万円のスタートだった。翌年は5億500万円へと一挙に倍増。以後順調に売り上げを伸ばし、第9期の売り上げが9億3300万円余り。
日本経済がやっと回復局面に入っていたものの環境は厳しかった。
タイムセールスに力を入れ、4月は前期比112.5%と上々の滑り出し。6月には126.6%と予想を上回る成果を挙げ、最終的に前期比108.1%。宿願の大台到達を果たした。
11月2日、エフエム東京から後藤亘社長と一戸陽麿専務を招いて創立10周年記念パーティーをKKRホテル熊本で開催。グラスを持った一戸専務が営業部長の永廣憲一に話しかけた。
「おめでとう。10周年で10億円。見事だね」
「おかげさまで、なんとか宿願が果たせました。」
「なんだかんだ言っても、営業が頑張らないと放送会社は立っていかないんだから・・・。これは大いなる成果だよ」
「部員たちが、よくやってくれたので・・・」ー永廣は美酒に酔いしれた。

この年の出来事

4月
  • 開局10周年記念番組
    • 「愛ひびきあう」(金曜11時30分~11時40分)
    • 「サタデー・カントリー・シャワー・ハート・トゥ・ハート」(土曜12時~12時25分)
    • 「甲斐あきひろの球磨川散歩」(土曜9時30分~9時45分)
    • 「ランチタイムジャック」(月~金曜12時~12時50分)
    • 「スパークリング電リクファンキーウィークエンド」(金曜16時~18時30分)
    • 「Y-ABO」(月~木曜17時~19時)

    放送開始

  • 「サウンドパラダイス」(月~木曜20時~20時55分)放送時間変更
6月
  • 「良平おじさんのMocho’s deNight」(金曜19時~19時55分)放送開始
7月
  • 「ウィーンの森少年合唱団公演」を県立劇場で開催
8月
  • 「かんぽ健康ファミリーちびっこサッカーフェスティバル」開催
  • 「FMK火の国フェスティバル・平成6年度冒険ロマンチスト贈賞式」を熊本市産業文化会館で実施
  • 大賞に天明水の会
  • 同会場で「岡林信康コンサート」開催
9月
  • FMKモンタナの旅を実施
  • 米モンタナ州のモンタナパブリックラジオ(KUFMK)と姉妹提携調印
10月
  • 「FMKランチタイムジャック」(月~金曜12時~13時55分)放送枠拡大
  • 「サウンドパラダイス」(月~木曜19時~20時55分)放送枠拡大
11月
  • 開局10周年記念番組「BIG SKY MONTANA」(1日21時~21時55分)放送
  • 「FMK美味か~にばる熊本’94スペシャル=くまもとグルメ・ランキング」をニュースカイホテルで開催
  • 「’94FMKカップソフトバレーボール大会」を熊本市総合体育館で開催
  • 県立劇場オータムスペシャルコンサート「銀幕交響楽」開催
12月
  • アスペクタからクリスマス特番「恋人達のクリスマスストーリー」(24日19時~19時55分)を生中継
1月
  • 「JET STREAM」パーソナリティー変更(小野田英一に)
  • 開局10周年記念「ウィーン・モーツァルト・オーケストラ・ニューイヤーコンサート」を県立劇場で開催
  • 開局10周年記念「永畑道子 愛ひびきあう講演会」を鶴屋7階ホールで開催
3月
  • 3月期決算で売り上げ10億円を初めて突破